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2016年2月24日 (水)

教会に行かなかった話。

僕は今日、自分になにか新しいものをもたらさんと期待していた読書会に行かなかった。聖書の読書会である。急げば間に合った。しかし、そうしなかった。僕にはこういう癖がある。つまり、余裕がなければなにもやりたくないのだ。たとえそれが聖なる事柄であれ! しかし、惜しいとは思う、残念な気持だ。なぜだろう。僕はキリスト教のドグマにはあまり興味がない。というか、教義上のことであれば他の宗教でもいいのだ。その意味では浄土真宗にも同様に興味はある。今日は教会に行こうと思っていたが、昨日は教行信証を読んでいた。僕はそういうやつなのだ。しかし、より一般的な問題として、僕の心が宗教的なものに捉えられるのはなぜだろう。そこに神秘主義的な誘惑があるからだろうか。一方で僕はそれを認める。僕は篤信でないとはいえヌミノーゼ的感覚を理解できないわけではない。また一方で、僕は自分を改造したいのだ、そのために宗教的な実践を必要としているのだ、ということも感得できる。つまり、僕はよい人間として行動したいとは思え、どうすればいいのか分からない。だから、宗教的活動にヒントを得ようとしている、こういうことだろう。僕は(不十分ではあれ)頭では分かっているはずなのだ、よい行動とはどういうものか、どのような振る舞いがよい人間にふさわしいのか。しかし、できない。これが僕の問題だ。ここから行の必要がでてくる。いわば、自分の行為に形式を与えたいのだ。柔術において技の型を練習するように、僕の生活、僕の行為にモデルを与えたいのだ。僕は教義上のことなら分かる。教の次は行が来る。信はその後に、証はさらに後に。これは重要なことだと思う。はじめから信が確かであれば、僕の心は乱れはしないだろう。それはなにも宗教的な境位でなくとも同様である。反対に、僕は信があればそれでよいとも思わない。はじめから信じているなどというのは盲信と区別がつかないではないか。僕は少なくとも自己に対してはそれを拒絶する分別を持とう。僕に信はない。この前提を発見した。しかし、信がないことは、さらに証(弥陀一如のさとり)がないことに根拠づけられている。もとより証があれば教などいらない。証を科学的に分析する方法があればよい。しかし証立てすることなど誰にもできない。だから、宗教的実存は信によって自己自身を賭け金にする。証がないのだから、賭けるしかないのだ。信とは実際、賭けていることだろう。願掛けによって掛けられているのは、自己自身の可能性なのである。(これがさらにエゴイズムから脱すれば、愛と呼ばれることになるだろう。)おそらく、この絶望的な賭博に、絶望的だと分かっていながら自己自身を賭けたいのは、ひとがエゴイズムから脱したいからなのだ。そしてそれは、僕もおそらくそうなのだ。エゴイズムから脱するということは救済と密接な関係を持っていると思われる。ひとは自己の有限性を自覚したならば、エゴイズムの性格である無をも見徹さざるを得なくなる。それは、個人は死ねば無であるという意味だけではない。厳密な意味での個-人は、生きながらにして無なのだ。エゴイズムは無である。なんとなれば唯一絶対的な超越論的主観性そのものは、なにでもないという特徴を持つからである。超越論的主観性は、あらゆるものに意味を付与するが、意味を付与するものである自己自身は無意味性に支配されている。希望のなさ、これがエゴイズムの帰結である。ここから脱出する手立てが、救済という名で呼ばれるのだと思う。救済がもたらされるのは他者の認識によってのみである。それは神を観念するという空中浮遊でなくともよい。他者性は愛される人の認識によってより具体的な形で指示されるだろう。しかしながら、なお聖なるものが僕を誘惑するとすれば、それは自己意識を第三者的認識との対面者として措定し、相対化させることで、生活一般に倫理性を与えるからであろう。愛される者の前では一方、主体は絶対化されるのである。(厳密な哲学はエゴイズムでしかありえない。近代哲学から現象学に至る道筋の到達点は自己自身である。しかし救済には意志の死が必要なのだ、とショーペンハウアーやキルケゴールが指摘するのはそれと矛盾した事柄ではない)

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コメント

今日は。哲学徒と仰る苔然さん、一つだけ教えて下さい。私は哲学は好きですが素人の物好きなだけです。それで、「超越論的主観性」とは何ですか。あるいは「超越論的」だけでもいいですよ。ドイツ語のtranszendentalの訳語で、先験的とも訳されていますが、これだとアプリオリとの違いが分かりません。
ともかく「超越論的」という言葉は日常用語でないどころか、哲学でもカント(及びその係累)哲学だけで通用する言葉のように思いますが、これがなんともピンと来ない、腑に落ちないのです。手元の辞書には「(カント哲学で)対象にかかわるのではなく、先天的に可能な限りでの対象の認識のしかたに関する認識についていう」とあります。(“認識のしかたにかんする認識”とは、はて?)これにしても、この辞書の著者がこの言葉を十分に理解して説明したという感じは伝わってきません(カント哲学ではこんな風に言っていると、いわば棒読みしている感じです)。私は、大して網羅した訳ではないですが、今までのところ、何を読んでもこれを普通に分かるように、砕いて解説したものはないように思います。‥‥これに対応する概念が日本語にはないということでしょうか。では、ドイツ語では分かりやすく(日常用語を使って)解説されているのでしょうか(それならそれを翻訳すればいいわけですよね。それがないということは‥‥)。
「それを説明しろというのか!」と苔然さんは怒るでしょうか?

平戸皆空さん、こんにちは。
僕が超越論的という語を使うときはフッサールを意識していることが多く、件の文脈でもそうでした。僭越ながら僕の理解をお伝えします。
フッサールは意識は常に何かについての意識である、と言い、この構造を志向性と呼びました。人はその志向的意識において、意識の外にあるものに関係しています。たとえばリンゴを意識したとき、私は確かに意識の中でそのリンゴを認識するわけですが、だからと言って、私はリンゴの観念を志向しているのではありません。私はリンゴそのものを志向しているのです。このように、人は意識の働きによって意識の外のものと関係を持ちます。このとき、いわば人は意識を「超え出て」いるのです。それで、意識されているものを「超越的」と形容し、そのように意識する主観性を「超越論的」と形容するのです。
カントの場合は、ご指摘の通り、「超越論的」と「ア・プリオリな」の区別がつかない場合があります。というのも、超越論的研究というのは、経験が可能であるための条件を研究しています。だから、超越論的研究は経験に先立つ、すなわちア・プリオリでもあるということになるでしょう。ただし、それは時間的に先立つというのではなく、権利上先立つという意味が込められている場合が多いので注意してください。(経験に対して時間的に先立つという意味であれば、たとえば生得観念による論証のような独断論に陥ったり、発達心理学や脳科学などの経験科学に哲学が取って代わられたりするかもしれませんね。)
「ア・プリオリな」と異なる「超越論的」の使い方について説明するとすると、次のように言えます。カントが純粋な理性のあり方(形式)について考察するとき、それはもちろん、彼の純粋な理性それ自身によって考察しているのです。つまり、純粋理性が純粋理性について考察する、という自己関係によってカントの研究は成り立っていると言えるでしょう。このような特別な性格を持った研究のそれぞれに、「超越論的」という形容がされているのです。この場合は、メタレベルで議論をするという点においていわば「超え出て」いるわけですね。乱暴な説明のようですが、『純粋理性批判』の序文冒頭にメタの議論(「形而上学 Metaphysik」)が予告されていますから、こういう説明をしても良いかと思います。

よい人はまずは、他人を意識して何かをする。だから、まず行替えをして読みやすい文章にするとかなりよい人になる。

早速のご返事恐縮です。
前段のフッサールによる解釈のところでは、そうしますと、意識の対象に向かう「志向性」をもって「超越的」と言うということですね。意識は大概何かの対象に向けた心理的な働きでしょうから(吐き気とかの気分は違うでしょうが)、みな「志向的」な性格のものだというのは分かります。しかし正直な感じ、志向的と超越的とを比べると、言葉が醸しだす距離感、次元レベルの点で差異がありますね(イメージですが)。こじつけた感じが残ると言ってもいいかも知れません。そうした意味であると言われますと、何か狐につままれた感じです。しかしフッサールがそう言っているのであれば、致し方がないことですね。
中段は分かりました。
後段のところでは、「純粋理性が純粋理性について考察する、という自己関係‥」の下りはやはりピンと来ません(私には)。確かカントの「純粋」とは「経験が混ざらない、先天的な」という意味だったと思いますが、身も蓋もない話、経験無しで理性が成立するものだろうかと思ってしまうのと、思考(≒理性)のカラクリが生理学的に解明されない限りこれは何とも言いようがないなと思ってしまうのですね。‥‥それが「カント語」だと割り切って読む以外にないのでしょうか。私が素朴に思うのは「超越論的」という概念は間違いなく新たな一歩を刻すものだったと言えるのかなと‥‥イヤ、私ごときが言うことではありませんね。ありがとうございました。
また何かお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

>観音様

観音様、いつもお導きありがとうございます。

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