哲学

2016年10月 7日 (金)

性(セックス)とは何か? 生殖とは何か?

生への意志の挫折としての生殖



 バタイユは、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えること[1]」だと『エロティシズム』の冒頭で述べる。この書においてバタイユが描こうとしたのは、人間が性愛や供犠によってその生命の失われた連続性を回復しようとするさまである。バタイユは、生命は本来連続的なものだと考えている。しかし、生命は個体というかたちで現象するゆえ、その連続性は絶ち切られる。ゆえに個体は不連続な存在と呼ばれる。個体としての生命は不連続ゆえ「孤独」であり、「失われた連続性へのノスタルジーを持っている[2]」。バタイユによれば、存在の連続性は認識されない――ショーペンハウアーならばそれこそ認識すべきことだというだろう――が、連続性の体験はある[3]。それが、性愛の体験、供犠の体験、神聖さの体験である。

 バタイユは連続性、すなわち生命の本質を暴力的なものだと評する。生命の本質は横溢する過剰な力であり、またこの連続性に触れることは個体性の消失、すなわち死を意味する。ゆえにこのような力は個体にとって暴力なのである。個体が死んでも生命は死なない。「平然と死に挑むこと」、「この連続性への開けこそエロティシズムの奥義」[4]なのである。もっとも、実在的な死は、「存在の連続性に到達しない[5]」。実在的な死はただ個体を破壊するだけである。そうではなくて、「存在の連続性は個々の存在の根源にある[6]」。

 ショーペンハウアーの思想は「生への意志」とその否定であると言うことができる。世界は根拠律に従って主観と客観が相補的に構成する「私の表象」[7]であるが、諸現象の本体は「物自体」としての意志である。この意志は盲目的な止むことのない衝動[8]であると規定された。生への意志は自己自身を見ようと欲する意志であるが、このような対象は表象としてのみ見えうるようになるのであって、この意欲は挫折せざるを得ない。かくして世界の本体である生への意志は不断に苦を味わうことになる。しかし、ショーペンハウアーによると、この苦を認識において把握することにより、意欲が断念される可能性がある(鎮静剤としての苦の認識)。これが生への意志の否定と呼ばれた。本稿では、ショーペンハウアーが否定されるべしと考えた当のもの、生への意志が彼にどのように考えられていたか、見てみる。

 先ほど確認したように、生への意志は衝動として規定された。そして「このような衝動は無機的な自然や植物的な自然とその諸法則のうちに、さらにはまたわれわれ自身の生活の植物的な部分のうちにも現れ出ていると思う[9]」、とショーペンハウアーは述べる。「この意志の欲するもの、これこそこの世界にほかならないのであって、それはわれわれの前に現れ出ているがままの生命の世界そのものなのである。[10]」ここでショーペンハウアーが無機物のうちにまでも衝動が現れ出ていると述べるのは、いささか奇妙な印象を受ける。しかし、おそらく彼がこのように言うのは「現れ出ている」という言い方に根拠がある。表象としての無機物は、根拠律の適用によって主客相補的に構成されている。「無機的な自然」といえども、生命であるところの個体の主観性と無関係に措定されるのではないのだ。しかし、意志自体が生命的なのではない。生命的なのは個体であり、また個体に相関的な表象としての世界である。意志、物自体は衝動と言われはするものの、生命ではない。世界は死なないし、生まれると言うことはできない(カントの第一アンチノミー)。しかし、意志のあらわれは常に生命的であるはずだ。(ここを捉えてニーチェは力への意志を生命的だとみなしたのかもしれない。[11])ショーペンハウアーは生命を「イデアにのっとって考察しようとしている」とし、「いっさいの現象の奥にある物自体であるこの意志」が「誕生とか死とかにわずらわされるものではない」と言う[12]。イデアが生まれたり死んだり(生成消滅)しないことは定義上必然であって、われわれにできるのはそれを肯定したり否定したりすることだけである。

 そこでこの肯定とは、生への意志、すなわち生命として現象する意志を肯定することであるが、その典型的な例が生殖である。自殺は生への意志の肯定であると述べる文脈で生殖に言及し、ショーペンハウアーはそこで堕胎や間引きだけでなく、避妊までも否定的に批判する。

 

人が妄想をいだく次のような場合も、この種の自殺行為とまったく類似の迷路であると言えようかと思う。受胎に際し自然の目的を無効にする(避妊のこと)ことで自発的な童貞純潔と同じ目的を達成できるであろうと妄想したり、新生児のこれからの人生に苦しみが避けられないことを考慮して、その児の死を促進したりする場合である。生命に向かって突進してくるあらゆるものに生命を安全に確保するためなら、むしろしてやれることがあればなんでもしてあげなければならないというのに。[13]

 

 生殖は生への意志の肯定であり、生への意志はまず肯定されねばならない。そのあとに、その否定への道行きがある。ショーペンハウアーは「救いのための唯一の方法は、まず生きんとする意志がなににも邪魔されないで現象して、そのうえでこの現象の中に意志が自分自身の本質を認識できるようになるというまさにそのことなのである[14]」と述べる。生殖行為のあとで、それがなんらかのしかたで転換して生への意志の否定に接続するということがあるとすれば、それはどのような状況だろうか。

 先述したバタイユは、生殖行為において二つのエロティシズムを区別する。肉体のエロティシズムと心情のエロティシズムである。肉体のエロティシズムにおいて、恋人たちが自分の身体の境界を曖昧にすることで、マーヤーのヴェールは(完全にではなくとも、一時的に)「透かし見られる」ことになる。バタイユはこれを愛する相手は世界の透明さであり、そこから聖なるエロティシズムの領域が透けて見えるというように叙述する[15]。恋人たちは、「愛する者を自分のものにしたならば……おまえの心は、愛する者の心と一つになるだろう」という声に従って、「肉体の結合の可能性に心情の結合の可能性を付け加え」ようとするのだが[16]、この試みは挫折してしまう。しかし、心情の結合は成し遂げられねばならない。エロースは心情のエロティシズムの段階まで高まらなければならないのである。ショーペンハウアーが共苦によって思考している愛とは、この心情のエロティシズムを志向することであろうと私には思われる。ショーペンハウアーは肉体のエロティシズムから出発して共苦に至る場合に言及している。曰く、「純粋な愛の語らいや愛撫の調子や語句が同情の調子とぴったり一致する場合がある[17]」、と。愛する相手を自分のものにすることは死(ここでは連続性を意味する)を指し示しはしない。その愛は自分という個体に執着したままで展開されているのだから。むしろ、死は、愛する相手を追い求めるときに侵入してくる[18]。このような場合にまさに、「死におけるまで生を称えること」としてのエロティシズムが現象していると言えるだろう。個体化の原理にとらわれた不連続な存在は解体され、その上で生への意志が肯定される(称えられる)。生への意志の否定が成就されるためには、その前段階としてこの二条件、個体化の原理の震撼と、生への意志が肯定され妨げなしに現象することとが必要であった。人間的-肉体的なエロティシズムは、この二条件を満たそうとする運動である。未検討ではあるが、供犠におけるエロティシズムもこの意味において生殖のそれと同様の機能をもつとするならば、死にゆく生命に対する「汝それなり」は、インスタントに供犠を行うことだと言えるだろう。

 


【注】

以下、『エロティシズム』はジョルジュ・バタイユ、酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年、初版。

『意志と表象としての世界』はショーペンハウアー、西尾幹二訳、中央公論社、1975年、初版。

 

[1] 『エロティシズム』16頁。

[2] 上掲書、24頁。

[3]上掲書、38頁参照。

[4]上掲書、いずれも40頁。

[5]上掲書、36頁。

[6] 同上。

[7] 『意志と表象としての世界』111頁。

[8] 「意志は、純粋にそれ自体として見れば、認識を欠いていて、盲目的で、抑制不可能な単なる衝動にすぎない。」上掲書、502頁。

[9] 上掲書、502頁。

[10] 同上。

[11] 「だから自然あるいは世界の確実性は、現象であり、その現象は人間にとっての現象であるかぎり、人間の存在の類比から理解される現象として、虚構性、仮象性をおびる。したがって、人間の取り得るさしあたっての確実な現実は、肉体の内に生起する内的現象である欲望と情動と考えられ、唯一つ「現実に与えられているのは、欲望と情熱の世界以外のなにものでもない」と、かれは仮定したのである。その「情動生活」の原因として、かれは繰り返し方法論的な仮説として、「力への意志」を衝動的生の根底においたのである。」眞田収一郎『力への意志 ニーチェ肉体論』、風濤社、2016年、初版、75-76頁。

[12] 『意志と表象としての世界』503頁参照。

[13] 上掲書、693頁。

[14] 上掲書、693頁。

[15] 『エロティシズム』34頁。

[16] 上掲書、33頁。

[17] 『意志と表象としての世界』656頁。

[18] 『エロティシズム』33頁参照。

2015年6月30日 (火)

保管: 『自明性の喪失』

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2015年5月12日 (火)

「○○トアル風景」

演出の言葉

2014年9月13日 (土)

ハイデガー『道標』目次

ハイデッガー『道標・ハイデッガー全集 第9巻』、辻村公一 ハルトムート・ブフナー訳、創文社、1985年、初版、目次

 

前書き

カール・ヤスパースの『世界観の心理学』に寄せる論評(一九一九/二一年)

現象学と神学(一九二七年)

マールブルクでの最終講義より(一九二八年)

形而上学とは何であるか(一九二九年)

根拠の本質について(一九二九年)

真性の本質について(一九三〇年)

真性についてのプラトンの教説(一九三一/三二年、一九四〇年)

ピュシスの本質と概念について。アリストテレス、自然学B、1(一九三九年)

『形而上学とは何であるか』への後記(一九四三年)

『ヒューマニズム』に関する書簡(一九四六年)

『形而上学とは何であるか』への序論(一九四九年)

有の問へ(一九五五年)

ヘーゲルとギリシア人達(一九五八年)

有に関するカントのテーゼ(一九六一年)

指示

後記(編者/訳者)

訳語解説

人名及び著作名索引


 

2014年9月10日 (水)

(転載)『論理学研究』1-3、目次

同、フッサール。以下より
http://auction.rakuten.co.jp/item/10199696/a/10005760/
第1巻 純粋論理学序説
1 規範学としての、特に実用学としての論理学
2 規範学の土台としての理論学
3 心理学主義、その論証と通常の反対論に対するその立場
4 心理学主義の経験論的帰結
5 論理学的諸原則の心理学的解釈
6 心理学主義的に解明された三段論法。推論式と化学式
7 懐疑論的相対主義としての心理学主義
8 心理学主義的先入見
9 思惟経済の原理と論理学
10 批判的諸考察の結論
11 純粋論理学の概念

第2巻 現象学と認識論のための諸研究
表現と意味
1 本質的区別
2 意味付与作用の性格について
3 語義の動揺と意味統一の同一性
4 意味体験の現象学的内容とイデア的内容
スペチエスのイデア的単一性と近代の抽象理論
1 普遍的対象と普遍的意識
2 普遍者の心理学的実体化
3 抽象と注意
4 抽象と代表象
5 ヒュームの抽象理論に関する現象学的研究
6 抽象と抽象体についてのさまざまな概念の区別

(第3巻)
全体と部分に関する理論について
1 独立的対象と非独立的対象の区別
2 全体と部分の純粋形式の理論のための考察

独立的意味と非独立的意味の相違ならびに純粋文法学の理念
諸論

志向的体験とその≪内容≫
1 自我の現象学的成素としての意識と内部知覚としての意識
2 志向的体験としての意識
3 作用の質量とその基礎にある表象
4 判断論を特に顧慮した、基づける表象についての諸研究
5 判断論再説。名辞的作用と命題的作用の質的な統一的類としての≪表象≫
6 表象および内容という術語の最も重要な多義性の総括

『論理学研究 4』目次

フッサール『論理学研究 4』(第二巻の第二分冊)の目次。節は除く。
序言
第二巻 認識の現象学と認識論のための諸研究(つづき)
六 認識の現象学的解明の諸要素
序論
第一篇 客観化的志向と充実化 充実化の綜合としての認識とその諸段階
 第一章 意味志向と意味充実化
 第二章 客観化的志向とその主要な亜種の性格を充実化綜合の相違によっ
て間接的に明示すること
 第三章 認識の諸段階の現象学
 第四章 両立性と非両立性
 第五章 理想的な一致。明証と真理
第二篇 感性と悟性
 第六章 感性的直観と範疇的直観
 第七章 範疇的代表象についての研究
 第八章 本来的思考と非本来的思考の先天的諸法則
第三篇 序論の問題の解明
 第九章 見せかけの意味充実化としての非客観化作用
補遺 外的知覚と内的知覚。物理的現象と心的現象

2014年9月 9日 (火)

『時間概念の歴史への序説』目次(一部)

ハイデガーの1925年の講義である。準備部にてハイデガーのフッサール理解と批判がなされる。主要部の内容は『存在と時間』へとつながる。本書に関して『現象学と形而上学』中でジャン=リュック・マリオンが論文を書いている。

ハイデッガー『時間概念の歴史への序説・ハイデッガー全集 第20巻』、常俊宗三郎など訳、創文社、1988年、初版、目次(一部)

 

序論 講義の主題とその扱い方

第一節 諸学の対象領域としての自然と歴史

第二節 時間概念の歴史を手引とした歴史と自然の現象学への序説

第三節 講義の概要

準備部 現象学的探求の意味と課題

第一章 現象学的探求の発生と最初の出現

第四節 十九世紀後半における哲学の状況、哲学と科学

第二章 現象学の基本的発見、現象学の原理および現象学という名称の明確化

第五節 志向性

第六節 範疇的直観

第七節 アプリオリの根源的な意味

第八節 現象学の原理

第九節 「現象学」という名称の明確化

第三章 現象学的探求の最初の形成と、現象学的探求それ自身においてまたそれ自身から根本的に省察する必要性

第十節 主題領野の仕上げ、志向性の基本的規定

第十一節 現象学的探求の内在的批判、純粋意識の四つの規定の批判的究明

第十二節 現象学的探求の根本領野としての志向的なものの有への問がなおざりにされているということの提示

第十三節 有そのものの意味と人間の有への問が現象学ではなおざりにされているということの提示

主要部 時現象の分析と時間概念の獲得

2014年7月10日 (木)

ブレンターノの学位論文「アリストテレスに於ける存在者の諸意味」、目次


フランツ・ブレンタノ著『アリストテレスの存在論』、岩崎勉訳、理想社、1933年、初版。

第一章 存在者と云ふことは同名異義語である。その多様なる意味は、偶然的存在者と、真としての存在者と、諸範疇の存在者と、可能的並びに現実的存在者と、の四つの区別の下に従属する。

第二章 偶然的存在者に就いて。

第三章 真としての存在者に就いて。

 真と誤とに就いて。
 真としての存在者と誤としての非存在者とに就いて。


第四章 可能的並びに現実的存在者に就いて。

 この存在者の意味の規定。
 可能態及び現実態の両状態の結合。


第五章 範疇の諸形式に従つての存在者に就いて。

 緒論的叙述。範疇はアリストテレスに依つて一定数のものが挙げられてゐる。アリストテレスの範疇に就いての近代解説者達の種々なる解釈。
 範疇は実在的概念である。
 範疇は存在者の種々な類推的なる諸意味である。その類推の詳細なる規定。
 範疇は存在者の最高の諸類である。
 範疇は第一実体の最高の諸賓辞である。
 範疇分類の原理。
 範疇の数と相違とは叙述の様式の数と相異とに対応する。
 範疇分類と、定義、特有性、類、偶有性への賓辞の分類との原理的なる相異。斯かる分類の原理と演繹。
 範疇は概念的に異なるものでなければならぬ。
一〇 範疇の相異は必ずしも実在的なる相異ではない。
一一 何故実在的なる自体的存在者のいづれもが必ずしも直接に一つの範疇に属するものでないか。
一二 範疇分類の演繹の可能。
一三 範疇分類の演繹。アリストテレスの著述の中に見られる斯かる演繹の痕跡。
一四 この推理式に依る確信は古来近代に於いて数多のアリストテレス解説者に依つて同じ様にして展開せられた。——アンモニウスとダビッド。——(似而非アウグスチヌスとイシオドルス・ヒスパレンシス。——トーマス・アクィナス。——プラントゥル。——トレンデレンブルク。——ツェラー。
一五 アリストテレスの範疇と、名詞、形容詞、動詞、副詞の文法的区別との間の一致。
一六 アリストテレスの範疇分類に対する諸方面よりの非難への回答。(一)原理の欠如に関して。(二)原理の外面的なることに関して。(三)何故範疇の根元を事物の四原因のうちに求むべきでないか。(四)分類の継続の欠如に関して。(五)一範疇のうちに於ける同義性の欠如に関して。(六七)a—f下属する諸事物に於ける混乱に関して。即ち性質と分量、能動と受動、何処と分量等、分量と関係、能動と受動と関係、その類が関係に属すべき諸性質。(八)同等的権利づけの欠如に関して。(九)a過剰なる枚挙及び下属的なるものの同格視に関して。b完全性の欠陥に関して。結合。——形而上学の最も本来の対象は実体である。


(ギリシャ語表記は省略した。漢字表記は新字体で表記した)

2014年7月 4日 (金)

フロム『愛するということ』メモ

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年、初版。

 

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である(40-41)

 

愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう(43)

 

成熟した人間は、いわば母親的良心と父親的良心を併せ持っている。母親的良心は言う、「おまえがどんな過ちや罪をおかしても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福にたいする私の願いもなくならない」。父親的良心は言う、「おまえは間違ったことをした、その責任を取らなければならない。何よりも、私に好かれたかったら、生き方を変えねばならない」。成熟した人間は、自分の外側にいる母親や父親からは自由になっており、自分の内部に母親像・父親像をつくりあげている(73)

 

愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである(76)

 

助けが必要だからといって、その人が無力で、相手方に力があるというわけではない。無力さは一時的な状態であり、自分の足で立って歩く能力は、人類に共通の持続的な能力である(79)

 

自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ(94)

 

自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊重・責任・理解(知)に根ざしている。もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである(96)

 

人間が自分で意味を与えないかぎり、人生には意味がない。人間は、他人を助けないかぎり、まったく孤独である(112)

 

愛するという技術に関していえば、こういうことになる――この技術に熟達したいと思ったら、まず、生活のあらゆる場面において規律と集中力と忍耐の修練を積まなければならない(165)

 

他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである(182-183)

 

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである(184)

 

他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである(184)

 

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである(189-190)

 

 

2014年5月 1日 (木)

デカルト 省察三 神について。神は存在するということ

 

デカルト『省察』

省察三 神について。神は存在するということ

読解と解説(でも別にアカデミックな通論であることを保証するものじゃない)

 

 いわゆる神の本体論的証明(存在論的証明)が展開される省察五に対して、省察三ではデカルトの少し変わった神の存在証明が行われています。

 省察二において「私はある、私は存在する[1]」ということを確信したデカルトですが、ここから発展して何か判断をするためには、「私」の他に(外に)何かが存在しているということを証明しなければなりません。しかし、私が私の精神の外の物質的事物について言明をするとき、私はそれについて本当に確信をもつことができるのでしょうか。もしかしたら、神が私をだまして、幻想を見せているだけかもしれません。そういうわけで、デカルトは物質的事物の存在について考察するのに先立って、神が存在するのかどうか、存在するとすれば神は私を欺くのかどうかを明らかにしようとしました。

 

……できるだけ早い機会に、神はあるかどうか、また、もしあるとするなら、欺瞞者でありうるかどうか、を吟味しなくてはならない。この二つのことが知られないかぎり、他のなにごとについても私は、まったく確信をもつわけにはゆかないと思われるからである。[2]

 

 デカルトの出発点は考える私の精神ですから、私のうちにある神の観念を考察することを通して、神の存在にたどり着く必要があります。

 デカルトによると、観念の実在性は二つに区別されます。形相的実在性と表現的実在性です。形相的実在性とは、ものがそれ自体で持っている実在性のことです。「形相」とは、ここでは字義通り「現実的に形をもって存在しているようす」をあらわしています。観念は意識の様態として存在するわけですから、「それ自体で持っている」とは言っても、観念の形相的実在性は「私」の意識に由来していることになります。一方で、表現的実在性とは、観念において表現されているかぎりの実在性をいいます。観念はそれぞれ何か意味内容をもっています。その意味内容が豊かで確かなものであるほど、表現的実在性は大きい、ということになります。

 デカルトは観念を「観念それ自体」と「観念の意味内容」に分け、それぞれの実在性の由来を調べた、ということです。

 観念の実在性を調べるにあたって、実在性の重要な性質を理解しておく必要があります。それは、「原因よりも結果の実在性が大きくなることはない」ということです。「私のうちにある観念は、……もとの事物よりもいっそう大きいもの、いっそう完全なものを含むことはけっしてできない[3]」のです。なぜなら、観念について原因よりも結果の方がより実在性が大きいということは、観念の実在性がいわば無から生じるということですが、そんなことはありえないからです[4]。したがって、下の図式が得られます。

 

★実在性について: 原因≧結果

 

 ようやく、「神」の観念について考える準備ができました。

 「神」という観念で意味されているのは、「ある無限な、独立な、全知かつ全能な、そして私自身をも――もし私のほかにも何ものかが存在するなら――他のすべてのものをも創造した、実体[5]」です。「神」の観念の表現的実在性はきわめて大きく、「神」観念の表現的実在性の原因が「私」でないことは明らかです。「神」の観念は「私」の外の何ものかに由来しているのです。

 

実在性について: 「神」の観念(表現的側面)>「私」

★より、「私」は「神」の観念の原因ではないことが言える。

 

 では、「神」観念の表現的実在性の原因にあたるものとはなんでしょうか。それは、「神」そのものにほかなりません。無限な表現的実在性は、無限な「神」から生じてくると考えるほかないからです。

 

実在性について: 「神」(原因)≧「神」の観念(結果)

 

 ここまでで得られた実在性の大きさを並べてみると、次のようになります。

 

実在性について: 「神」≧「神」の観念(表現的側面)>「私」

 

 はじめに、私は「私は存在する」ということを認めていましたから、「私」より実在性の大きい「神」が存在しないはずはありません。したがって、「神」は存在することが証明されました。

 また、この証明のなかで「神」は「私」の外に存在する実体であることが示されましたので、「神」が「私」を欺かないのであれば、デカルトは晴れて物質的事物についての考察に進めるというわけです。「神」が「私」と「私」の外の物質的事物をとりつないでくれるのです。

 神が欺瞞者ではないことの説明は非常にあっさりしています。曰く、「ここに私が神というのは、その観念が私のうちにあるその神、いいかえると、私が把握することはできないが、しかしあるしかたで思惟によって触れることはできるところの、すべての完全性をもっており、いかなる欠陥からもまったく免れている神である。これらのことから神が欺瞞者でありえないことは明らかである。なぜなら、すべて奸計と欺瞞とはある欠陥にもとづくものであることは、自然の光によって明白であるから[6]」、と。

 



 

【文献】

デカルト著、井上庄七・森啓・野田又夫訳『省察 情念論』、中公クラシックス、2002年。

 

【注】

[1] 35頁。

[2] 53頁。

[3] 61-62頁。

[4] 60-61頁。

[5] 66頁。実体とは、それ自身で存在するもののこと。

[6] 76頁。

 

 

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